2017年7月31日月曜日

静かな声の男







朝6時半に到着したアグアスカリエンテス村の駅はマチュピチュ遺跡に向かう人々でごった返していた。ここから遺跡の入り口まで、徒歩で2時間は掛かるらしい。勇ましい若者は4時起きで急斜面の上りを歩いて行っただろうが、朝6時から10分おきに出るというバスは何台も連なっており、そのバスに乗ろうとする旅行者が、これまたずらりと並んでいた。バス乗り場はすぐに分かるだろうかと心配することは何もなかった。


ほっそりとし、小柄で、ケチュア人だろうが、恐らくアジア系ではないかと思わせる目つきと、それにしては鼻筋が通っており、彫りの深さを合わせ持っていることで、スペイン系の血も混じっていると思わせる風貌の、若いのか、それなりの歳なのか、ちっとも年齢不肖な男性が、旅行会社が手配したアシスタントとして駅に迎えに来てくれていた。


静かな声で、あのバスに乗ってマチュピチュ遺跡の入り口まで行くのだ、と教えてくれる。ワイナピチュ登山のためには、7時までにワイナピチュの入り口に着かないと困ると興奮して伝えようものなら、そんなの分かっているさ、と一向に意に介さない様子で、また静かに、あの列をご覧よ、とバスを待っている人々の列を指差す。行儀よく、あの列の最後についたなら、7時まで待ってもバスには乗れないよ、と淡々と話す。


そして、まあ、俺に任せろ、と言わんばかりに、バスの乗車券とパスポート、ワイナピチュ登山の許可書を渡すように指示される。ここは彼に任せるしかない。書類を受け取ると、さっと飛ぶように消えて行ってしまう。あの細めの彼に、我々4人の宿泊用具の入った鞄を預け、宿泊施設まで持って行ってもらうのだろうか。他にも、2人の旅行者のスーツケースも預かる様子である。一体、大丈夫だろうか。


道路の向こう側から、さっきの彼が合図をしている。すぐ来るように、と。この4つの鞄はどうすればいいのか。大声で鞄のことを言えば、そこに置いておけば良い、とにかく、早く来るように、と指示が飛ぶ。確かに、このどさくさに紛れ、旅行者の寝袋のような鞄をさらう好き者はいそうにない。皆マチュピチュ遺跡に行くことで頭がいっぱいの人々ばかり。そして、貴重品は自分たちが持っている。さあ、行かないことには、バスに乗れず、バスに乗れないことには、ワイナピチュ登山はできない、と思い切って通りを渡り、彼のところに駆けつける。


ペルーは、マチュピチュ遺跡に入る観光客に対し、必ずガイドが必要との新たな規則を作っていた。大切な遺跡で観光客に好き勝手なことをさせないこともあろうが、観光ガイド育成・支援、観光による収入増を狙ったものとも言えよう。我々のガイドとなったユゴーに出会う。爽やかな笑顔がまぶしい好青年。アシスタントの男性は上手くバス会社と交渉できたらしく、ユゴーと一緒に次のバスに乗れと我々に指示する。そして、鞄は間違いなく宿泊施設に置きに行くと言ってくれる。その間、彼は全く笑顔を見せない。しかし、彼の誠実さは、静かな語り口調からしっかりと伝わってくる。ユゴーとバトンタッチしたかのように、アシスタントの男性はすっとまた消えてしまう。


彼の名前は知らない。多分、名乗らなかったのだと思う。我々4人にとって忘れられない人物となり、我々の旅の行程の鍵を握る人物になろうとは、その時は誰もが予想だにしていなかった。


かくして、我々4人とガイドのユゴーを乗せたマイクロバスは、幾つものヘアピンカーブが連なるハイラム・ビンガム・ロードを一気に駆け上がったのであった。




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2017年7月30日日曜日

真っ暗闇の車窓





早朝4時のオリャンタイタンボの村は冷気が感じられ、真っ暗闇に人っ子一人おらず、ひっそり閑としている。我々の足音のみが響く。突然、バイクタクシーが現れる。駅までは歩いて15分と聞いていたが、暗闇であり、荷物を持っての移動でもあり、せめて荷物だけでも車で運んでおきたかった。乗る意思表示をし、バッタ達に荷物を預けるように言い渡し、母と二人で乗り込もうとすると、もう一台欲しいのか、と聞かれる。確かに、ここでバッタ達と別れることは賢明な判断ではないかもしれない。と、ドライバーが口笛を吹くと、もう一台、闇の中から現れる。


思った以上に駅までの道のりはあり、バイクタクシーに乗車できで良かったと思うのも束の間、そこだけ幾つものお店が明りを放っている通りで降ろされる。慌ててミネラルウォーターと熱々の茹でたジャンボトウモロコシを購入。さて、駅に向かおう、と思うが、実は駅が見当たらない。駅、という概念自体が、ここでは違うのかもしれないと思うと、不安が募る。そこにいる人々は右往左往しており、一体どこが駅で、電車が止まっているのか分からない。バックパックを背負っている西欧人と思われる二人連れに声を掛けると、女性の方が彼らの後方を指し、あちらだ、と言う。そして、震えんばかりに、何もないので寒いわよ、と言い残して行ってしまう。


言われた方に向かい、早歩きで進むと、確かに何かの入り口らしいところで、乗車券のチェックをしている。どこにいたのだろうと思われる人が並んでいる。プラットフォームなどあるのか分からない。そこに停車中の電車の車内の光が唯一の明るさであり、そこに吸い込まれるかのように、人々がそれぞれに入っていく。


電車に乗り込み、指定された席に落ち着くと、漸くマチュピチュが近くなったように思われた。ジャイアントコーンの淡白で、にっちゃりとした味わいは、ぷっつぷつの日本の美味しいトウモロコシを知っているバッタ達の口には合わなかったらしい。が、マチュピチュに向かっている我々には格好の朝食に思えてならなかった。


かくして、高揚する気持ちを持て余しながら、真っ暗闇の車窓を見つめつつ、一睡もできずに電車に揺られていった。








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2017年7月29日土曜日

マチュピチュを目指して







標高の高さからだろうか、乾季なので空気が乾燥しているからだろうか、太陽の日差しが強い。日本の天照大神のおわす御社は鬱蒼とした木立の中にひっそりと佇んでいるイメージだが、この地でインカ帝国を起こしたケチュア族が崇めた太陽の神、インティは頭上から存在感を持って民を照り付けている。そして、ケチュア族が今でもその信仰を続ける大地の母、パチャママは、至る所でその存在感を放っている。






夜中に到着したリマから、翌朝早朝の便でクスコ入りした我々は、ホテルに大きな荷物を預けて午後のペルーレールでオリャンタイタンボ駅からマチュピチュ遺跡のあるアグアスカリエンテス村まで行く予定であった。午後はゆっくりと温泉を楽しみ、翌日の一日400人限定とされるワイナピチュ登山に備えるはずであった。


ところが、3週間も続く教員によるストライキが山場を迎え、インカ帝国の首都、クスコからオリャンタイタンボ駅への幹線道路が通行止めになっていると教えられる。夕方には解除されるだろうから、翌日早朝の電車でマチュピチュまで行くしかないと言われる。オリャンタイタンボ駅までクスコから車で2時間程度。始発の電車は5時。クスコで一泊しても、夜中の2時半には出発をしなければならない計算となる。さすがにそれはないだろう。それならむしろ、オリャンタイタンボ駅まで夜のうちに行ってしまい、そこで一泊し、翌朝、それでも早い4時起きでマチュピチュに向かった方が賢明ではないか。






アグアスカリエンテス村で予約を入れていたホテルに、ストの影響でやむを得ず予約キャンセルをする旨伝え、旅行会社にオリャンタイタンボ駅に適当な宿を取ってもらう。


  



夕方からではないとクスコを出発できないのかと危ぶんでいたが、旅行会社が手配してくれた車は午後3時にピックアップしてくれる。一体、本当にストライキなどしていたのか半信半疑となるが、クスコから目的地までのマイクロバスでのドライブは、クスコがいかに急斜面の地に作られているかを如実に知ることが出来、大いに楽しめた。そして、この田舎道や山道を突っ走るドライブが夜中ではなかったことに、感謝。また、標高が高い山岳地帯を上り詰めた先の景観が余りに息を飲むもので、観光バスではなかったものの、一瞬で良いから写真撮影の為にバスを止めてもらうようにお願いした。







勇んで外に出た我々だったが、同じバスに乗っていた旅行者の男性は蒼白で辛そうな顔をしている。どうやら高山病の影響らしい。標高の高い場所で休憩などと呑気なことを頼んだことをお詫びすると、丁度一息入れたかったので、と、これまた辛そうに答える。若い男性だったが、高山病の恐ろしさを垣間見た思いがした。


  



遥か遠くには雪を抱いた山の峰が光って見える。今立っている地でさえ、標高が4000mはあるだろう。標高6000m級の山を従えるアンデス山脈の壮大さに息を飲む。





オリャンタイタンボに近づくと夕日が山々の斜面をオレンジ色に照らしていた。インカ帝国の砦の遺跡が夕闇に隠れ始めていた。




近間のレストランで早目の夕食をとる。楽しみにしていたセビーチェをメニューに見つけて、早速オーダー。母を始め、今回の旅行に同行している息子バッタと末娘バッタはアルパカのステーキ。凍ったセビーチェは味こそ悪くないが、夜の帳が下りたオリャンタイタンボの村では急激に気温が下がってきており、臓腑が寒さに凍えてしまう。



   



そそくさと戻ったホテルでは、母のリクエストで熱湯ポットとパネルヒーターをゲット。各部屋にはついていないが、リクエストをすれば無料で支給してくれる。決してサービスが悪いわけではない。ただ、お願いしないと出てこないシステム。学生時代のキャンプ施設を思わせる宿泊施設で、満天の星空の下、重い毛布の中に潜り込む。






数年前から母から誘われていたマチュピチュ遺跡への旅。「マチュピチュに行くなら足腰がしっかりしている時じゃないと。ワイナピチュ登山をし、山頂からマチュピチュ遺跡を俯瞰しないと。更にはマチュピチュ山も制覇したい。」当初、母のリクエストの意味が分からなかった。マチュピチュは遺跡であって、山ではないのではないか。遺跡は確かに急斜面にあるようだか、そこで登山もするのか。マチュピチュに対する知識など、中学生の社会の授業の域を出ていなかった。入山には人数制限があり、一年前から予約が必要との情報を母が入手。夏休みの日程を確実に押さえなければ、とても計画できない、さてどうしたものかと思案したのが今年の2月。「あなたが計画しないなら、ママ一人で行ってくるわ。」そう言われもしていた。何とか獲得したワイナピチュ登山の券が、日程上ペルー入りした二日目なので、高山病やら旅の疲れによる影響が心配されなくもなく、何故にこのようなスケジュールにしたのかと最後まで指摘を受けながらも、兎に角、やってみよう、と元気いっぱいの笑顔で母は眠りについていた。


こうしてオリャンタイタンボの夜は静かに更けて行った。










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2017年7月28日金曜日

インカの末裔








インカの純粋な末裔。そんなものは、もうこの世には存在しないんだよ。

家庭ではケチュア語を話すと言うユゴーが淡々と語る。シナモンよりは濃い目の肌に真っ白な歯が爽やかに映える。

そもそも「インカ」とは、王のことを指すんだよ。

どうやらスペイン人がケチュア語の「インカ」という言葉をケチュア族、そしてケチュア族の国家を指す言葉として使うようになったらしい。空中都市、マチュピチュの石段は思った以上に高さがある。小柄とされるケチュア人は足腰が非常に頑丈で、頑強であったとユゴーが、これまた淡々と語る。決して筋肉質ではないユゴーの足取りは確かに軽く、しっかりとしている。

スペインのピサロが1553年にインカ帝国を滅ぼし、ケチュア民族を始めインカ帝国時代の民族は蹴散らされ、いや、スペイン人、スペイン人が連れてきたアフリカからの奴隷たちと結合させられ、その後アジアや欧州からの移民たちとの融合の時代が続く。



  



相手を思いやりつつも、決して相手にそれを負担に思わせない。急な上りが続く中、若干遅れを取る母を待つともなく、インカトレイルの話をしたり、インカ帝国時代の飛脚が喉を潤したという草の実を摘んで教えてくれる。






スカンポの味にそっくりな、その実を味わう。






食事をする時、常に大地の母に恵を感謝するという。食する前に、ご馳走にふっと息をかけ、宙に飛ばす、という。

ペットボトルを開けた時に、少し水を大地にたらした彼。あれは、パチャママへの挨拶だったのか。

話を聞けば聞く程、自然と融合して生きていたインカ帝国の民たちに、日本の山岳信仰や八百万の神の宗教観に共通するものを感じてしまう。







信仰心の薄いものだって、この山脈からの風を髪に感じ、眩しい朝日を顔に受け、空を真っ赤に染める夕日を目の当たりにすれば、自ずと跪くのではないか。

ユゴーが我々のインカ帝国への旅のイントロをしてくれたことを感謝せずにはいられない。

クスコ(Cusco/Cuzco)、いや、コスコ(Qosqo:ケチュア語)出身の彼は、標高が高く埃多い彼の地よりも自然豊かなマチュピチュに住み、マチュピチュ遺跡のガイドをしている。

決してスペインによる植民地時代を卑屈に思わず、自分たちの歴史としてしっかりと
その頑強な体全体で抱き留めている。彼こそ、誇り高き、正に、インカの末裔ではないか。







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2017年7月4日火曜日

北の街









「明後日の晩、何か予定がある?」
「別にないわよ。」
「北の街に行くんだ。夕食でもどう?」
「喜んで。電車の時刻を見てみる。」

サイトで電車の時刻表を睨みながら、明後日は数ヶ月前から準備していた講演会があることに気が付く。どうするか。ひょっとしたら、相手は翌日もそこにいるのかもしれない。慌てる前に、予定を聞いてみる。

「その日だけだよ。」

「その日、行く予定をしていた講演会があるの。」
幹事とは名ばかりながら、当日は受付と会計を担当することになっていた。

それでも、北の街での夕食に気持ちはすっかり傾いている。ありえない、と思いつつも、関係者にお詫びのメールを書き、知り合いに受付と会計をお願いする。

会社から駅に駆け込むことになるだろうから、慌てないように事前にチケットを買って印刷をしておく。

当日、夕方携帯がなる。

まさか?
ちょっと緊張した声で受けると、のんびりとした明るい声が返ってくる。乗車券はもう買ってしまったか、と聞かれる。購入済みと言えば、キャンセルできるか、と聞いてくる。要領を得ない。一体どうしたのか。すると、思っていた以上に早く仕事が終わってしまったので、パリに戻るという。夕食はパリにしよう。

ちょっと待ってくれ。こちらはチケットを購入済み。しかし、誰もいない北の街に一人で行く気にはなれない。それなら、とキャンセル。30ユーロのキャンセル料を徴収されるが、60ユーロは戻ってくる。まあ、仕方ない。

深く考える間もなく、打ち合わせの時間となり、気が付いたら18時を回っている。そろそろパリに戻ってきた頃だろうか。レストランの予約はどうするのか。慌ててSMSを送ると、電話が入る。

「チケット、キャンセルしちゃったの?」
えっ?まさか?真っ青になる。
「ちょっと、どこにいるのよ。仕事が早く終わったからってパリに戻ってきているのじゃないの?」
「いや、あれから色々あって、まだこちらにいるよ。」

「何言っているのよ。それならそうと、早く言ってくれなきゃ。キャンセル料を支払ってチケットはキャンセルしたし、もしも電車に乗るにしても、もうオフィスを出ないと間に合わないわよ。これを逃すと、次の電車は22時にそちらに到着なのよ。」

信じられない思いを抑えつつ、打開策を必死で考える。待てよ。もしかしたら、本当に今ダッシュしたら、電車に乗れるかもしれない。

一方で、そこまで走って行って、乗り遅れた時の虚しさ。騙されたような、虚脱感を味わうことへの恐怖も覚える。

それでも、行こうか、と思う。
このところすっかり雨降りになり、猛暑はどこに行ったかと淋しく思っていたが、急に夏の日差しが空を明るくしている。

これで本当に間に合わなかったら諦めよう。
一瞬、さっさと諦めて、講演会に行くことも頭を過ぎる。それでも、足は駅に向かってダッシュしていた。

これは罠かと思う。試されているのか。いや、馬鹿にされているのか。

北の駅に着いてみれば、慌ててパリに戻っていた、となることも十分考えられた。

全くなんてお人好しなのか。大学生の頃、そう親しくない友達を二時間も駅で待っていたことを思い出す。そうして、その友達はちゃんと二時間遅れてやってきた。

馬鹿馬鹿しいと思いつつも、キャンセル料まで払ってキャンセルしたチケットを改めて正規料金で買う。あと5分。

こんな時に限って指定車両はプラットフォームの奥にある。それでも、吸い込まれるように車両に乗り込むと、電車は静かな音を立ててドアを閉め、出発。

間に合ったか。
車窓からの景色は真っ青な空がまぶしい。





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2017年7月2日日曜日

悪魔に魂を渡す










フランスに生まれ、フランスで育ちながら、母親が日本人というだけで、つまり、親のエゴで日本語学習をすることを余儀なくされてバッタ達。今年は、息子バッタがバカロレアの試験を受ける。

鋏が上手く使えないからと呼び出された日を思い出す。左利きなので、右利き用にできている鋏を使うことは、そう簡単ではなかったらしい。が、幼稚園の4歳幼児の時である。仕事をしている母親への偏見が学校側には大いにあったに違いない。せめて夜、家に帰ったら、お子さんと一緒に鋏を使ってあげてください、と真顔で言われた時には、面食らったもの。

ただ確かに、左利きであることのハンディは、右利きの人間が思っている以上あるらしい。鉛筆を使う縦書きノートは、当然汚く汚れるし、手も汚れてしまう。

バイオリンだけは、左指の力が違うので、弦を押さえる時に有利かと思ったが、どうやら弓を動かす右手こそ重要なので、左利きがバイオリンの演奏に有利なんてことはない、と中学時代の息子バッタに言われてしまっていた。

男女沢山の友達に囲まれ、毎年幾つもの誕生パーティーに呼ばれ、多くの友達を呼んで自分の誕生日を祝った日々。それが気が付くと、いつの間にか超硬派となり、必要以外のことを口にしなくなり、バイオリンこそ恐らく親の執念で続けたが、あんなに大好きだったサッカーを止めてしまった年もあり、ティーンの辛さ、悩みを一身に負っているような時もあった。

最終学年の時には、笑顔が戻り、サッカーも復活。お国柄、この歳にもなるとパーティーで煙草、ドラッグ、アルコールは当たり前。それを忌み嫌ってクラス会や学年のパーティーにはちっとも参加をしなくなった息子バッタも、同じ波長の仲間が出来たらしく、彼等とは映画だ、バスケだ、サッカーだ、と遊びに出掛けるようになっていた。高校最後の日には、友達が4人ぐらい泊りに来て、サロンを占領されてしまったが、ドライだとばかり思っていた息子バッタが仲間と楽しそうにしている様子を、心から嬉しく思った。

いつ、日本語学習を放棄してもおかしくない環境だったが、遂に、一般のフランス人はおろか、日本の教育界でも、その存在さえ余り知られていないであろう、一般バカロレアでも、オプションアンテルナショナルの日本語選択という、厳しい試験を敢えて受験。今は、その結果を待つのみ。

このディプロムを得たことで、今後フランスで高等教育を学んで行こうとする息子バッタにとり、何か有利なことはあるのか、と問われれば、実は回答に窮するところ。二年前にやはり同じ試験を受けた長女バッタにとっても、同じ。彼女も日本に進学をしたわけではない。理数系の彼らにとり、最終学年でも人文学の科目を習得し、文学の分析に時間を費やし、科目の配点比重も高いとなれば、この選択は足枷になるとも言えよう。それでも、長女バッタは、このディプロムを得たことを誇りに思う、と嬉しそうに語ってくれていた。

社会の口頭試問の前日、何でも質問をしてくれと言われ、現代日本の抱える問題点を5つ挙げよ、との私の質問に対しての彼の回答にあまりに度胆を抜かれたので、無事に取り敢えず試験が終わってほっとしている。

少子・高齢化問題、エネルギー自給率の低さ、拡大する社会格差、四つ目に何を言ったのか、忘れてしまったが、五つ目に、日本国憲法第9条、平和主義、を挙げた時にはつんのめってしまった。この憲法により日本は自衛隊しかなく、自国の戦力を持てないことで、アメリカの軍事力に依存せざるを得ない構造になっている。これは一国の統治能力欠如の問題につながる。うんぬん。

待ったぁ!こんな政治的に微妙な内容を、試験官がいかにニュートラルであることが求められるとは言え、どのような思想をお持ちなのかも分からない中、日仏ハーフの高校生が発言することで、どんな評価を得るのか。

試験官も人の子。その方の心証を悪くするようなことは、できるだけ避けるに越したことはない。そんな計算を、息子バッタが受け入れるはずもなく、自分の意見のどこがおかしいのか、と仏頂面。

高校時代、先に受験をした兄が、大学入試とは、悪魔に魂を渡すことなんだよ、と囁いたことを思い出す。特にしっかりとした自己主張があったわけでもない当時の私には、兄が何を言っているのか、本当のところは分からなかった。兄が何を苦しんでいるのかも慮ることができなかった。今なら分かる。つまり、回答内容にたとえ自分が合意していなくても、その答えを求められているのであれば、あえて、自分の意思をも曲げてでも伝えることが、試験を突破する鍵なのである。

もしかすると、兄と息子バッタは通じるところがあるのかもしれない。いつか、兄から息子バッタに話をしてもらえる機会があればいいが、男同士、そう話が弾む様子でもない。自然に任せるしかあるまい。機会とは、思わぬ時に訪れるものなのだから。

取り敢えずは、ヒロヒトなどと決して呼び捨てにせず、せめて昭和天皇と言うようにとアドバイスをし、他の質問に移った。

そもそも、フランスの国家試験であるバカロレアをフランスで教育を受けたわけでもない日本人の教師が試験官を務めることに無理があるのかもしれないとの思いが過る。が、ここは、余り大事にせず、そんな質問を息子バッタが受けないことを祈るしかあるまい。彼の得意なグローバリゼーション、中東の問題、世界の格差問題、あたりがテーマとなってくれることを願った。

翌日、彼があたったテーマは日本の民主化。おっと、おっと。一体どんなプレゼンをし、質疑応答とになったのか。

かくして、高校時代最後の試験は終了。時は容赦なく過ぎてゆく。母の役割は益々なくなっていく。






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