2015年1月31日土曜日

天空に舞い上がる透明な音の粒






「今度の夏のコンサートだけど、ソロをしてもらおうと思っているの。やってもらえるかしら。」

金曜の夜の息子バッタのヴァイオリンの練習が始まる前のこと。
7月の第一週に、フランスの田舎の村で三日間に渡るコンサートが催されることになっている。今年が初めての試み。フランス全国からヴァイオリニストやチェリスト、ピアニストが集まり、共通のテーマの下で、会場別にコンサートをする。第一日目はバロック。二日目は確か午前中にジャズ、午後が映画音楽、三日目はクラシックといったところ。

息子バッタにソロとの大役の声が掛かった曲は、バロックがテーマの第一日目の夜のコンサート曲、Corelliのコンチェルトグロッソ―第8番。その第一ヴァイオリン。

リヨンからも一人ソロが選ばれており、最終的に一緒に弾くのか、直前にどちらか一人にするのか、未定という。「それでも、引き受けてくれるかしら」、とヴァイオリンの師、マリは息子バッタに尋ねる。

固唾を飲んで見守る。
昨年の春のコンサートでは、人前でソロはしたくないと言い張り、皆を当惑させていた。それでも、上手にマリは導いてくれ、ヴィヴァルディの4つのヴァイオリンのためのコンチェルトの第二ヴァイオリンを練習の為といって皆と弾くには弾いていた。最終的に当てにしていたヴァイオリニストチームの参加が無理となり、当日はソロとして演奏することになったが、苦虫を潰したような顔ながらも、しっかりと演奏してくれた時には、涙ぐんだもの。

彼は、今回はどう反応するだろうか。

マリは随分長いこと考えた末の結論だと言う。「引き受けてくれるかしら。」

「分かりました。」

はっとする。
彼は新たな扉を開け、一歩踏み出した。


透明な音の粒がきらめきながら天空に舞い上がっていくような彼の弾くバッハのヴァイオリンコンチェルト第一番に聴き入りながら、心の震えが止まらない。






にほんブログ村 その他日記ブログ つれづれへ
にほんブログ村

↑ クリックして応援していただけると嬉しいです
皆さんからのコメント楽しみにしています



2015年1月27日火曜日

あやしうこそ




 
 
 
 
松尾芭蕉よろしく、何やら『あやしうこそものぐるほしけれ』の心持ちになる。

 

戸棚を探すと、ちゃんと奥の方に1パック見つかる。

ざらざらっとボールに入れ、じゃりっじゃりっと研ぐ。

そして、たっぷりの水を入れる。さあ、明日の朝までたっぷりと水を含んでおくれ。

 

翌朝、たぷたぷの水と一緒に鍋に入れ、ベーキングパウダー小さじ一杯を振り入れ、沸騰させる。ぶくぶくと溢れる泡はスプーンで掬い取ってしまう。沸騰した状態で弱火で5分。火を止めて蓋をして5分。それから、すっかり湯を流し、改めてホーロー鍋に入れて、たっぷりの水とともに沸騰させ、それから弱火で小一時間ゆっくりと煮る。

 

さて、それから布袋に入れて、綿棒で潰す。ここで、皮を除く過程となるらしいが、どうやら皮はすっかり潰れてしまったのか、何も出てこない。篩で擦り、そこに水を入れ、沈殿したところで上澄みを捨てること数回。上澄みと言っても、なんだかせっかくの中身が流れて行ってしまいそうで、どうも時間がかかって仕方がない。また布袋に入れて水分を絞り出す。量を量ると800g程度。この4割程度の砂糖を用意する。その半分を掛けて暫く置くが、どうも変化はない。水分を絞り過ぎてしまったのだろうか。物の本には混ぜてはいけない、とある。一方向にヘラを使うべし。本来なら、ぽってりと仕上がるところ、どうも水分不足なのか、もう出来上がってしまっている。艶が出るタイミングも逃してしまっている。

 

が、まあ、いいか。

なんだか、栗のペーストのような触感。結局、砂糖も予定の半分程度しか入れていない。だからか、素朴な味わい。それも悪くないか。

 

転がっているオレンジ色の薩摩芋に目をやりながら、次回なる挑戦に意欲がわく。

 

 

 

にほんブログ村 その他日記ブログ つれづれへ
にほんブログ村

↑ クリックして応援していただけると嬉しいです
皆さんからのコメント楽しみにしています

2015年1月24日土曜日

おほけなく




「ママ、百人一首、一位だったよ!」
嬉しそうな大きな声に迎えられる。
声の主は末娘バッタ。毎年恒例の学校での百人一首大会。幼い時は息子バッタや長女バッタと一緒に混ざって、ちっとも取れずに、それでも端っこに座っていた。三人目の運命か、親は一人目で既に全てを伝授したつもりになっているので、末娘バッタには特別に覚え方や取り方を教えた記憶はない。それでも、クラスの大会では奮闘しているらしく、毎年のように一番多く札を取れるらしい。

「二位だったよ。」とは長女バッタ。何かの具合で、去年だけは長女バッタが一位であったが、いつも同じ少年が一位。中学の頃は、今年こそ、と札を覚えたり、練習に勤しんでいたが、高校三年の今は百人一首どころではないのだろう。

皆が覚えていない、マイナーな札を意外に覚えていて、我が家でもかなり健闘する息子バッタはどうだったのだろう。末娘バッタがちょっと声をひそめて、こしょこしょと何かあったらしいよ、と話す。長女バッタときたら、大声で「そうだ。先生が心配していたよ。」と言う。一体、何があったのか。

面倒くさそうに、ソファから身を起して息子バッタが出てくる。余計なことを言って、と末娘バッタを睨む。話を聞いてみると、唸ってしまう。決戦に臨まないために、予選で取った札を全て二人の友達に渡してしまったという。自分の分は一枚しか残さなかったので、教師がおかしく思ったらしいが、誰も何も言わず、息子バッタの友人の一人が決戦に臨んだとか。

一応は授業の一環。真面目に札を取らないとは何事か、と一旦は声を荒げてみる。すると、予選はちゃんと真面目に札を取ったからいいではないか、と返事が返ってくる。決戦には行きたくなかったんだ、とぼっそりと言う。「ボクと一緒のチームになると、札が取れないって、皆が騒ぐんだ。すっごく嫌がられるんだ。」と言う。

超然とした態度が取れないものか。皆に言われても、そんな言葉に反応していては駄目じゃないか。そう思うものの、声には出さない。彼には彼の世界があるのだろう。今の彼には、別に百人一首大会で何枚とれようが、大したことではなく、それより重要なことがあるのだろう。クラスで何番目か、に価値を見出していないことを、とやかく言うつもりはない。真剣に臨まないのであれば、話は違うが、取り敢えず、かるたは真面目に取っている。ならば、まあ、いいではないか。

ヴァイオリンのことで痛いほど分かっている。絶対に皆の前でソロを弾きたくない、ヴァイオリンは誰かのために弾くものではない、と主張され、言葉にならなかったことを思い出す。あれは、一年前か。あれから、少しずつ変わってきている。ヴァイオリンの演奏の仕方も、練習への姿勢も変わってきている。とやかく言わずに、今は見守ろう。

それよりも、何よりも、昔夢であった家族対抗百人一首ができる現実の有難さをじっくりと味わおうではないか。

おほけなく 憂き世の 民に おほふかな
    わがたつ杣に 墨染の袖






にほんブログ村 その他日記ブログ つれづれへ
にほんブログ村

↑ クリックして応援していただけると嬉しいです
皆さんからのコメント楽しみにしています



2015年1月20日火曜日

それぞれのストーリー



いつからだろう、気が付いたのは。
早朝のバスはほぼメンバーが決まっているが、中でも、寒い中ストッキングにヒール姿の出で立ちは、自家用車通勤ならまだしも、この片田舎からバスと電車を乗り継ぐ通勤族には珍しく、彼女は目立っていた。

いかにもキャリアウーマンといった威勢の良さと、ふくよかな亜麻色の髪をたなびかせたマダムの気品を併せ持っていた。

パリで電車を降り、エスカレーターで上昇している時に、品の良いバックスキンのヒールを目にし、所有者を確かめたところ、彼女だったことがある。そうして、パリでの下車が同じ駅であることを知った。

大抵、電車の中では新聞を読んだり、メールの返事を書いたり、今日やるべきリストを頭に描いたりと、頭は常に動いている。もしくは、さっき出たばかりのベッドの温もりを求め、ぼんやりしており、あまり周囲には目を配っていない。

だから、いつから気が付いたのかは定かではない。正確には、いつから始まっていたのかは定かではない。

ある日、エスカレーターから上の階に出たところで、向こう側に立っている人に向かって歩み寄る人影を見る。それが彼女だった。その時には、そんなに意識もせずに、見過ごしていた。

しかし次第に、頻繁に待ち合わせていることに気が付き始める。

最低限のマナーを守りつつ、控え目ながらも好奇心に勝てずにさり気なく見ていると、ひょっとしたら恋人同士の待ち合わせなのかと思うようになる。

お互い50代だろうか。同じ職場なのだろうか。これから一緒に出勤するのか。
電車での待ち合わせというところが、悪くない。

そう、皆、それぞれのストーリーを生きている。エネルギーが体内を駆け巡る。
吐く息白く今日も元気にパリを闊歩する。





にほんブログ村 その他日記ブログ つれづれへ
にほんブログ村

↑ クリックして応援していただけると嬉しいです
皆さんからのコメント楽しみにしています



2015年1月17日土曜日

記憶





記憶程あてにならないものはない。
幼い頃は、きょうだい達が自分が覚えていない話を懐かしがってしていることを耳にし、いかにも自分も記憶をしているかのように思い始め、いつしかそれが記憶として定着したものもある。
そして、社会人となり始めた頃は、あらゆることを覚えている自信があった。いや、つい最近までそう思い込んでいた。ゆるぎない自信を持って、自分の記憶に間違いがないと思い込んでいた。

それがどうだろう。
気が付いてみると記憶の欠落がある。ある時代そのものの記憶すべてではなく、一部のみが欠落している。というよりも、一部のみを覚えていると言おうか。

例えば柿の木。
幼い頃に裏山にあった柿の記憶は鮮明だ。幹のじゃらじゃらとした肌触りさえ思い出すことができる。いたずらっ子よろしく、オレンジ色になった実を勝手に頂戴し、噛り付き、ぺっとしたことも覚えている。母ときょうだい達と一緒に収穫したことも、あの時、コリーのビックがいたことも覚えている。一人で齧った時と、母と一緒に収穫して味わった時とでは、どうして甘さが違うのだろう、と思ったことも覚えている。

それからの記憶が欠落している。

小学四年の時に、山側の場所から、道路を挟んで真向いの家に引っ越しをしている。そこの庭にも柿の木がある。引っ越す以前は無花果の木があって、何度か食べた記憶があるが、今はもう無花果はない。となると、引っ越した時に柿の木が植えられたのだろうか。そうに違いない。『桃栗三年柿八年』と言っていたことが思い出される。ちょうど私が東京に進学した年ぐらいから、柿の実がなるようになったのだろう。

だからか。

膝を打つ思いになる。故郷に帰って、我が家の庭の柿の木を見上げ、そこになっている実を見ても、収穫の記憶がなかったのは。

記憶の糸を手繰り寄せるようにすれば、ちゃんと出てくるものなのか。


今度は柿がたわわになる季節に帰郷し、母と一緒に干し柿を作ろうか。




にほんブログ村 その他日記ブログ つれづれへ
にほんブログ村

↑ クリックして応援していただけると嬉しいです
皆さんからのコメント楽しみにしています


2015年1月13日火曜日

気になる存在


 
 
 
月と桜が見つめ合う瞬間。

そんな一瞬を絵にした東山魁夷。

 

画家は常に第三者としての目をもって事象を見るのだろうか。

 

南向きのドアを開けると、眩しいほどの光を浴びる。

見上げれば半月。そこには、何も介在しない。月と私のみ。

 

一体どうやって、どこにでも追ってくる、あの月が他の誰かと見つめ合っていると思えるのだろう。

 

明けきらないバス停で佇んでいると、真向いに輝く月と目が合う。

朝靄のパリを闊歩しながら、ふと気が付くと、アパートの煙突の上から、かっきりと覗く月。

 

月が全ての地をまんべんなく照らしていると思う前に、月は私のことを見ていると思えてしまう。

いつだって月と対峙している自分がいる。

 

どうやらまだまだ東山魁夷の境地に至ることはありそうにない。

そうして夜空を見上げる。

 



にほんブログ村 その他日記ブログ つれづれへ
にほんブログ村

↑ クリックして応援していただけると嬉しいです
皆さんからのコメント楽しみにしています


2015年1月12日月曜日

謹賀新年

 
 
発光体から暗闇に降り、出口と思われる緩やかな光を放つ方向に歩み寄る。
 
光の中に入ると、ブルーマリンのオーバーがそこにいることが当たり前の様ににっこりと立っている。
 
手をつないで氷の粒が煌くようなイルミネーションの扉をくぐる
 
琥珀色のビールでもなく、カラフルなカクテルでもなく、黄金色の細やかな粒が舞上がるシャンパンで新年の祝杯をあげる。
 
甘やかな果実の香り豊かな黄金の液体がグラスに注がれ、ミルティーユを摘んで朝食とした思い出がよみがえる。
 
 
ゆったりと時は流れ、再び暗闇の中にひとり足を進める。
 
と、頭上には神々しいばかりの満月。
 
 
改めて発光体に乗り込む。
 
溢れんばかりの思いをこぼれないように丁寧に掬い取るようにゆっくりと記憶を辿りながら、いつしか眠りに導かれる。
 
 
ふと目を開けると車窓の奥は暗黒の世界。トンネルか。
 
再び目を閉じるが、ぎょっとして目を開ける。トンネルなんてあるはずがない。
車窓の奥に目を走らせる。ただただ暗闇の空間が広がっているだけ。
 
笑みが顔中に広がる。
 
 
この一年が幸せに満ち溢れ、夢多き年となりますように。
 
 
夜汽車は緩やかにカーブして闇に光を放ちながら滑らかに走り続ける。
 
 



にほんブログ村 その他日記ブログ つれづれへ
にほんブログ村

↑ クリックして応援していただけると嬉しいです
皆さんからのコメント楽しみにしています